kuwa3972の日記1

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

どうする家康 戦国武将の明暗

長篠の戦いの後、織田徳川連合軍は設楽が原の戦いで武田を撃破する。

いつも想うことだが、我々が知っているのは歴史の結果だけ。

長篠城救出のために仕掛けられた戦いが設楽が原の戦い。

我々がよく知る、織田徳川が武田に勝ったとされる戦いについて「どうする家康」ではドラマチックな考察を交えつつ物語として描かれていた。

今日のドラマの見所は、戦場の勝ち負けの様子ではない。

織田信長がいかにして皆殺し作戦を決行することができたか、さらにはその後

徳川家康が織田信長の臣下になったことなど、今までそれほど気にしてこなかったことが、物語の中で重要な案件として描かれることになった。

設楽が原の戦いの後は、信長の部下になった家康が武田勝頼をさらに追い詰める

そしてその時、家康の息子信康が率先して戦場に赴いた。

実は、このことがこの後の歴史的な事件に大いに関係してくる。

家康の正室瀬名と長男信康は家康自身の命令によって粛清されることになる。

その原因を作ったのが信長と伝わるが、おそらく家康は自分の家族を粛清せざるをえないように追い込まれたのではないかと推察。

来週はそんな流れで描かれるのだろう。

物語の中では、徳川家康の存在感は今一つ。

恐るべきは織田信長。

そして武田信玄の亡霊を背負った武田勝頼の悲哀

不思議なテイストでエピソードが綴られた。

狡猾な信長の前ではなすすべがない家康

目次

長篠の戦いの突破口

酒井忠次が武田軍の背後を急襲 挟み撃ち作戦成功

このときの織田信長は決して前線に出て自分の身を危険にさらすような真似はしない。

要するに、後ろのほうに控えていて高見の見物と洒落込んでいた。

家康にしてみれば長篠城が切羽詰まった状態で1日も早く救出したい。

しかし、信長の行動は驚くほど平坦なもの。

長篠城のはるか手前に馬房柵をたくさん準備させていた。

歴史的事実として伝わっているので、その事は我々もよく知っている。

ただ、想い描いたような戦いをするためには、それなりの下準備が必要になってくる。

つまり馬房柵に敵が突っ込んで来なければならない

その状況をいかにして作り出すことができるのか。

そのために一肌脱いだのが酒井忠次。

自ら軍勢を引き連れて、武田軍の背後に回り込む。

そこで、重要な砦を1つ落とすことができれば、武田を挟み撃ちにする事ができる。

そしてその作戦こそが今回の設楽が原の戦いの最重要ポイントになった。

織田信長の作戦

武田を滅ぼすために3000挺の鉄砲を用意

物語で描かれる織田信長は自分のことしか考えないサイコパス。

詳しい説明はしていなかったが、例の馬房柵は信長自身の発案とされている。

そして、わざわざ材料を岐阜からを運び寄せたもの。

つまり、武田勝頼の背後を絶って逃げ道を塞いだ上で自分の陣地に突入させる。

そして、そのための作戦の準備を周到にやってきた。

このときの鉄砲隊を率いていたのは佐々成政の軍勢と聞いている。

歴史上重要なのは、馬房柵に突っ込まざるを得なかった武田勝頼軍。

家康の催促などどこ吹く風

織田信長はこの頃から武田の後 織田に脅威となる勢力は徳川家康だと断定。

自分の娘(五徳)をスパイに仕立て上げる。

確かに徳川家は、この後悲運に見舞われることになるが、その時のきっかけを作ったのが五徳だと言われる。

悲運の武将武田勝頼

父信玄を超えるためにあえて無謀な作戦を😱

武田勝頼の家臣たちは戦場から引き上げることを提案していた。

このまま戦っては、勝てないどころか場合によっては大損害を被ることになる。

危惧した家臣たちは、口を揃えて撤退を進言したが、この時勝頼は父信玄なら必ず現状を打破したはずだと譲らない。

武田信玄なら進撃したはず

勝頼にとって撤退は自分自身の負けを認めることになる。

しかし、父を超えるためにどうしても引き下がるわけにはいかなかった。

武田家に伝わる合言葉

御旗楯無し照覧あれ。

はるか昔、武田信玄を題材にした大河ドラマでよく称えられていたと思う。

御旗楯無 武田家家宝にして国宝

しかしながら武田勝頼は、父信玄が戦う前の下準備を入念にする1連の作業を全て無視していた。

つまり、無謀な作戦をあえてとってしまったことが決定的な敗因。

設楽が原の戦い

武田勝頼は信長の罠にはまってしまう

今日のエピソードで描かれた内容だと、織田信長の鉄砲隊は史実通り、鉄砲の3段撃ちを採用していたね。

最近の研究では、どうやらあの方式ではないんだけどな。

武田は一万5000の軍勢のうち、およそ10,000が亡くなったとされている。

徳川軍も6000人が犠牲になった。

描かれた通り、累々たる屍が横たわっていただろう。

織田信長の目的は、武田の軍勢を根絶やしにすること。

自分自身を滅ぼそうとした勢力をことごとく排除する。

この戦いで信長の術中にはまった勝頼は、主な重臣たちも失ってしまう。

年代は、1575年。

しかし、武田勝頼はこの後1581年まで逃げ延びることになる。

竹田は簡単には滅ぼされなかった。

それよりも年代を見て驚くのは、織田信長が1582年の6月に本能寺の変で暗殺されるのだ。

この時代考証が歴史の複雑に入り組んだ事情を如実に物語っていると思う。

徳川信康に起こる異変

率先して戦に出る信康 やがて心に異変が

徳川信康が織田信長に後ろ指さされるようになったのは五徳による告げ口とされる。

その内容が、物語で描かれている信康とは似てもにつかぬ乱行ぶりで、その説明がこの物語の展開なんだろうと思う。

虫も殺せないはずの長男信康は殺戮を経験するうちに、精神に変調をきたしていたんだろう。

どうやら来週、その恐ろしい結末が待ち受けるような気がする。