どうする家康はいよいよ物語の佳境に入ってきた。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」の前日譚が描かれる。
今日描かれたエピソードでは、いかにして関ヶ原の戦いになだれ込んでいったか歴史的な考察をもとにドラマとして展開。
まず、家康は会津の上杉討伐のために挙兵した。
実はこれが石田三成の企てた謀略。
徳川家康を大阪から引き離し、東北地方へと追いやる作戦。
そして家康がいなくなった大阪を大軍勢で掌握する。
作戦は見事に的中し、成功したかのように見えた。
しかし、対する家康がそのことに気がついていないわけではなかった。
あらゆる方法を巡らせて石田三成の企てに激しく抵抗。
そこでは悔やみ切れない多大な犠牲も払わざるを得なかった。
鳥居元忠と連れあいの千代。
伏見町に留守番として配置した2人は家康から預かったわずか2000の軍勢で、石田三成の本体4万の大軍勢と戦う事態に。
多勢に無勢はあらかじめ想定されたこととは言え、元忠が降伏する事は絶対になかった。
夫婦2人とも籠城した兵隊たちとともに覚悟の討ち死に。
物語の中で描かれた2人の様子は壮絶なものとなった。
そして家康はこの戦いが情報合戦であることを熟知。
必死で全国の武将に手紙を書き続ける。
それは対する三成も同じ。
お互い自分の味方を増やすための卑劣な情報戦を繰り広げることに。
そして、歴史は思いがけない展開とともに来週に至る衝撃の結果が待ち受ける。
目次
家康が選んだ作戦行動
家康に身方する武将たちは、大阪に人質をとられているような状態。
これこそが石田三成の狡猾な作戦だった。
家康が会津に出兵したときに味方する武将たちの家族は、すべて大阪に置いていた格好に。
そのまま仁質として捉えてしまえば三成はこの上もなく有利な戦いを進めることができる。
家康自身も阿茶の局を始め、側近たちの何人かは人質に取られる格好に。
しかし物語の中で描かれたのは、思いがけない味方の存在。
寧々は石田三成と秀吉の側室茶々の暴走を支持していなかったと思われる。
彼女は早くから徳川家康と親密な関係を築いていたことが歴史にも伝わる。
そして豊臣家が無事に生き延びられるようなささやかな願いを家康に求めたものと思われる。
しかし、家康が保護したのは寧々のみ。
茶々も豊臣秀頼も助けることにはならなかった。
全てを根絶やしにするしかなかったのが家康の最後の大仕事になってしまったようだ。
物語では、関ヶ原の戦いが行われた西暦1600年。
徳川家康は、1616年に亡くなっているが、豊臣家を滅ぼすために亡くなる前年まで心血を注いだ。
やはり物語でも絵描かれたように、関ヶ原の戦いに至る1連の作戦行動が、家康の一生を左右する大戦になった事は間違いない。
徳川の足かせ 真田
真田家の総帥真田昌幸。
彼は徳川軍に従う素振りを見せてはいたが、豊臣を完全に裏切ったわけではなかった。
自分たちが生き残るために、豊臣にも徳川にもどちらに転んでも良いような作戦を取っていた。
そして今回の徳川家康のとった作戦に対して、絶妙な形で足を引っ張ろうとする。
つまり、家康の本隊が関ヶ原に向かえないように絶妙な足止め工作を行う。
物語の中でも語られていたが、最初に降伏の意思を表明する。
そして、呼び出しには決して応じない。
いたずらに時間が過ぎる中、影で様々な謀略を巡らし、家康と秀忠が連絡を取りにくくなるような諜報活動を行っていた。
それらは秀忠に付したがっていた榊原康政と本田正信によって全て明らかにされた。
この2人の家臣がいなければ、秀忠の軍勢は更なる被害を被っていた可能性が。
2人の知略に長けた家臣がついていながら秀忠は、関ヶ原の合戦に遅参する大失態を演じてしまうことになる。
これらは皆歴史に伝わることなので、徳川幕府の二代将軍秀忠は凡庸な将軍との評判が立った。
実際はそれほどではなかったが、やはり百戦錬磨の真田の前では軽くあしらわれてしまったようだ。
伏見城の悲劇
伏見城では、多勢に無勢の勝ち目のない戦いが繰り広げられていた。
元より覚悟の上の籠城作戦だったが時間が経つにつれて抵抗も通じなくなってしまう。
歴史にも残る大惨事が繰り広げられることになった。
鳥居元忠は三河武士の鑑と賞賛され後世に名を残すことになる。
武田信玄の間者だった千代は今日のエピソードで今まで得られなかった死に場所を求めるままに得られたような描かれ方。
実際にどのようなことが広げられたかははっきりとは伝わらないが、2人とも死んだ事は間違いのない事実だろう。
家康と三成
徳川家康は、石田三成との戦いはどれだけ多くの味方を得られるかにかかっていると確信していた。
そのためには、豊臣恩顧の武将をいかにして身方につけるかにかかっていた。
おそらくは戦が終わった後の恩賞についてもそれなりにたくさん語っていたようにも思う。
対する三成は家康の断罪一本。
正義は我にありの姿勢を絶対に崩そうとはしなかったようだ。
ここに家康と三成の決定的な差が現れたと思う。
今まで散々白刃をかいくぐってきた家康は武将が何を求めているかを知り抜いていた。
三成はどこまで言っても大義名分のお題目から離れることができない。
今までの数多の戦さの経験が関ヶ原の戦いの勝敗を決することになる。