古典派音楽5人の作曲家
ハイドンが活躍した時代、音楽史では古典派と呼ばれる。
古典派とはバッハヘンデルから始まり、ハイドンモーツアルトが活躍し、その後ベートーベンが出て最高潮に達した。
しかし同じ古典派といっても、バッハやヘンデルは、古典派の前の音楽 バロック音楽の集大成として扱われ、彼ら以降、古典派と呼ばれるように。
本来の古典派音楽の真骨頂はハイドンモーツアルトであると言える。
その後に出たベートーベンは古典派の領域にとどまりながら、その次の時代ロマン派に至る道を切り開いたとされる。
目次
音楽の父音楽の母
バッハとヘンデルを考えてみると、彼らがバロック音楽の頂点に君臨するととらえる。
バロック期の音楽の特徴は、ポリフォニックに音楽を構成すること。
わかりやすく言えば、複数の旋律を対比させて音楽を構成する。反対に1つの旋律を掲げて後はその旋律の伴奏とか、盛り上げ役に徹する音楽をモノフォニックと呼ぶようだ。
バッハは特に複旋律音楽(ポリフォニック音楽) の第一人者と言われる。
バッハが最も得意とし、常に駆使していたのがフーガと呼ばれる技法。
1つの主題をもとに次々と別の主題が巡ってくるのだが、最初の主題を少しずつ変化させて曲を重ねて完成させる。
バッハの音楽を壮大な建築物に例える評論家は多数存在する。
綿密に計算され、巨大な伽藍を築き上げる。
バッハとはそうした音楽家だった。
バッハの音楽には他のものを寄せ付けないような圧倒的な気高さ、そして受け入れがたい孤独感が漂っているとも言えるだろう。
バッハと対照的なのがヘンデル。同時期に活躍した作曲家でありながら、ヘンデルはバッハと違って奥行きのある深みのある温かみを感じるメロディーラインで多くの人に支持された。
交響曲の父 ハイドンをこう呼ぶ
ハイドンはバッハヘンデルと同時期に活躍しながら、パパハイドンと呼ばれて多くの人に愛された音楽家である。
もともと音楽家の一家に生まれたわけではない。ハイドンの場合、この当時の職業音楽家としてはごく普通にパトロンの貴族に雇われて、楽団を指揮する、そのような立場だったらしい。
ハイドンの頃になると音楽はポリフォニックからモノフォニックに 変化し始めていた。
ハイドンの魅力はなんといってもおおらかさ。全てを包み込むような心の奥行きを感じるのである。ヘンデルとは一味違うと言える。
ヘンデルが多分に叙情性を匂わせたのに対して、ハイドンはその音の広がりは重厚感を求めていたように見える。
クラッシック音楽を、古典派を中心に考えるのであれば、ハイドンはまさにドンピシャの作曲家と言える。
あらゆる曲を鑑賞するのに手本となるべきものをたくさん残していると言える。
音楽の神童
モーツアルトは言わずと知れた天才である。
昨日、私がこしらえた記事を参考にしていただきたい。
モーツアルトはまさに音楽の申し子と言っていいだろう。
彼自身 自分自身のそのような役割を認識することなく命を削って作曲にいそしんだ節がある。
特に彼の晩年のいくつかの作品は、まさに命と引き換えといってもいいかもしれない。
彼にとっての作曲は仕事とか使命とかの領域を超えた、ほとんど運命的な強制と言って良いのかもしれない。
彼は運命によって作曲させられたのだと私は個人的にそう解釈している。
モーツアルトの活躍した時代にはモノフォニック音楽が全盛となった。
アマデウスと言う映画があった。
その映画の中でモーツアルトが友人の頼みに応じて、一般の人でも気軽に歌えて楽しめる曲を依頼される場面があった。
モーツアルトのきらびやかで華やいだ音楽の出発点がそこら辺にあるのかもしれない。
モーツアルトもその才能を大きく評価されながらも、晩年は見る影もなくみすぼらしいものだったと記録に残る。
楽聖
クラシックファンなら割と知られたことだが、楽聖ベートーベンはパパハイドンの弟子と言われている。
ベートーベンはハイドンのもとで音楽、とりわけ作曲について学んでいたようなのである。
ここでも逸話が残っていて、ベートーベンは必ずしも良い生徒ではなかったようなのだ。
それには理由があって、特に和声学では平行5度、平行8度と言った響きを嫌う傾向がある。この響きは耳障りが悪いので使ってはいけないと一般的には言われているのだ。
ベートーベンはこのようなセオリーを時たま無視して作曲したようなのだ。
周りのものが、その和声は禁止されているやり方ですよと指摘をしても、ベートーベン曰く誰が禁止したんだ?と言って取り合わなかったようだ。
自分が必要だと思えば耳障りが良いことも悪いことも全て使ってみるのがベートーベンのやり方。
このようなルール無視は当然ハイドンとしてはできの悪い生徒と見ることになったようだ。
しかし様々な映画でベートーベンとハイドンのやりとりは出ているが、きちんと師匠と弟子の関係で会話も成立していたような記憶が。
やはりその辺はベートーベンの音楽が世の中に大きく支持を得ていたこともあって、ハイドン自身も気にいらないながらも認めるところがあったようだ。
ドイツ国歌
ハイドン作曲の弦楽四重奏がこの曲の原曲となる。
ハイドンらしい特徴が前面に出ていて、国を愛する気持ちがひしひしと伝わってくるではないか。
作曲した楽曲が国歌に採用されるなんてこの上もない名誉だろうと考える。
ハイドンらしい、包み込むような優しさとそして気高さ重厚さがすべて盛り込まれた傑作だろう。
まとめ
ハイドンが多くの人に愛されたのにはその人柄が理由だったようだ。
もちろんおおらかで万人受けする作曲も理由の1つではあろうが、ハイドンは特に面倒見の良いことでも知られていたのである。
ハイドンがモーツアルトと親交を結んでいてとても親しい間柄にあったのは有名なことのようだ。
モーツアルトはわずか35歳で世を去って、残された家族が路頭に迷うような事態に陥ったのだが、その時にまるで身内のように手を差し伸べて助けたのはほかならぬハイドンである。
自分自身が親しかった友人の家族の苦境を見て見ぬふりをするのは彼の気持ちが許さなかったのだろう。
特にモーツアルトには2人の息子がいたようなのだが(実際は4人いたのだが2人は若くして亡くなっている)、その2人の息子の面倒をよく見ていたようなのだ。
ハイドン自身も、もちろん名声を得ていた作曲家ではあるのだが、いわゆる職業音楽家なので、それほど裕福な暮らしと言うわけではなかったはずなのだが、人を助ける義侠心に置いて当時としては珍しい心情の持ち主だったのかもしれない。
そして、この当時の作曲家としてはハイドンは珍しく長生きしていると言える。
それもこれも、多くの人から愛され支援を受けることができた彼の人となりによるところが大きいだろう。