ブログをアップするにあたって、私は物語の予習を欠かさない。
それはあらかじめ自分なりにストーリーの先行きを予想することと、ブログ内で使用する写真をどのように選択するかに思いを馳せるため。
「虎に翼」はかつてないほど引き込まれる作りになっていると断言できる。
もともと戦争中のエピソードには、個人的に造詣が深かったこともあって、どのような取り上げ方をするのか最初から興味津々だった。
物語で描かれた原爆裁判の最終弁論の文言には圧倒される思い。
日本を始めとする先進国は三権分立と言って
司法
立法
行政 が独立して存在するとされる。
しかし、物語の中でも描かれた通り、司法は立法府などから思いがけない横槍が入っていたことも描かれていた。
桂場が物語の中でその事実を語っている。
さらに、特に感心したのは認知症になった百合さんの気持ちを表現する形で描かれていたエピソード。
百合さんはひたすら謝っていたが、実はこの事は認知症の勉強会ではごく普通に紹介される認知症患者の特徴。
認知症を患った人は、周りの支えてくれる人たちに対して常にすみませんと言う気持ちを持ち続けていることが普通に紹介されていた。
視聴者としてこのことをとても重く受け止める
さて、法律に則った原爆裁判の判決分は主文の前に判決理由が述べられるごく異例の対応。
法的には賠償責任が国にあるとは認定できない。
脚本家は原爆裁判について綿密な調査をしたに違いない。
そして脚本家らしい考察を控えめな形で表現していたと推察。
あくまでも状況報告の形で物語を描ききった事は物語の奥行きをさらに増したものと感じた。
目次
原爆裁判最終弁論
個人の損害賠償請求権が国際法上とか日本の法律上に認められるかは残念ながら記述がないために認めることにはならないとするのが司法の判断。
判決理由は、当時の裁判当事者にもグサリと突き刺さるものがあったに違いない。
物語が設定されていたのは昭和38年の12月が最終だった。
あの東京オリンピックの前年に相当するね。
ちなみに私は小学校4年生
この頃の記憶はしっかりと残っているので詳細にわたるまで振り返ることも可能。
少なくとも日本全体で貧しさとは無縁になり始めた頃。
物語は、画面の隅々にまで絶妙な配慮がなされていたと思う。
傍聴席をいっぱいにしていたのは主に記者たち。
彼らの反応が無言のセリフとなって物語の流れを説明していた気がした。
多分、我々日本人の大きな特徴だと思うが、何とかして全体像を素早く理解したいと思う。
そういった事情もあったせいか、判決の主文は後回しにされていた。
気の早い連中が理由の途中で席を立とうとしていたが、再び戻ってくるあたりの描き方はユーモアセンスも充分。
判決は史実の通り。
原告の請求を棄却する
確かに法律に規定されていないものを認めるわけにはいかない。
しかし説明文は明らかに被爆者の救済が中心に据えられていた。
この後、被爆者救済法が直ちに制定され救済措置が取られることに。
法律の限界と法律に望まれるもの
実際の司法に関わるとなれば時代劇で描かれる大岡越前の大岡さばきのようにはならないよね。
どこまでいってもベースになるのはあらかじめ制定されている法律。
法律の解釈をめぐっては様々な議論があるだろうが、基本的には法律に則った行動を取ることで全てが回っていくものとされる。
したがって立法は必要な法律を制定し、行政は制定された法律のもとに社会制度を運用することになる。
私にとっては子供の頃の記憶だが、様々な雑誌などで被爆者の悲惨な様子はそれとなく聞いていたように思う。
それぞれがたどり着く未来
物語の最初の方で描かれていたが梅子と道男のたどり着いた未来。
道男は寿司屋をつくように話を持ちかけられていたが、自分の人間的な持ち味を考えると厳しい部分もあると思って一旦は断ったらしい。
料理は好きだけど、お金の計算とか人と会話する事は正直苦手。
だから店は継げないと思ったようだ。
実はこの話のすぐ横に梅子が。
彼女がすかさず持ちかける。
私と一緒に和菓子とお寿司屋さんをやらない?
道夫の苦手な事は梅子はみんな得意。
2人が力を合わせれば確かにうまいこと仕事は成立するような気がする。
物語を見ていて感動的に描かれているが、振り返って考えてみるとちょっとうますぎるような気がしないでもない。
しかし、虎に翼のストーリー展開はこういった結びつきもありだと思わせるに充分な最初の設定があった体だと思う。
虎に翼がぶれなかった理由
この物語は主人公が困っている助けてほしいと思った人に迷いなく、手を差し伸べるところ。
大きな主題だと思う。
脚本家の筆力が確かなものでなければ到底かなわないだろう。
物語は残すところ3週間の放送となった。
思った以上に短かったような気がする。
作品の内容が濃かったからに他ならない。
最後まで全力疾走が続く。