調べてみると青天を衝けは今日の放送を入れて残り3回とあった。
つまり年内で終わってしまう。
途中から物語の進むスピードが圧倒的な加速感で進んでいると感じたが。
走らざるを得ない理由が今日の物語の中からも感じ取ることができる。
先週は彼の息子篤二に注目したエピソードが描かれていたが、今日も彼は重要な役どころで登場する。
驚くことだが渋沢栄一を演じている吉沢亮が27歳。
息子篤二を演じている泉澤祐希が28歳とあった。
ドラマだからできる離れ業だろう。
父親が息子より年下なんて、それも養子とか特殊な事情を介さずに実の親子関係でこういった配役がなされても、物語を見る限りではきちんと親子になっているのがなんとも不思議。
物語は日清戦争の勝利を受けて、さらに日露戦争になだれ込み、また勝利。
しかし、必死で頑張ってきた国威発揚は主導する者たちと民衆の間では大きな亀裂が存在した。
登場人物たちの様々なエピソードを交えながら、歴史の中で指導者と民衆との関係が克明に描かれる。
歴史から学ぶべき事は驚くほど多い。
目次
日露戦争
日露戦争前から渋沢栄一はアメリカへ4回ほど外遊している。
最初が1902年。
栄一はこの時61歳。
彼の主な業績は還暦を過ぎてからもいくつもの難事業を成功させている。
経済人としての活躍は言うまでもないが、彼の場合、著名人とのことで日本の代表としてあちこちの国に赴くこともあったようだ。
1902年のアメリカ訪問では当時の大統領セオドアルーズベルトとも会談している。
このときのルーズベルトはまだ40代そこそこ。
若い大統領は渋沢に日本の軍事力や工業力について賞賛したとされるが、その時栄一は商業がいまひとつ力が及ばないことを反省して、この次までにアメリカと対等に取引ができるように頑張ると言ったそうな。
この直後の日露戦争では、戦争経費が国家予算の8倍にも及ぶというとんでもない事態に。
日清戦争が終わって間もない頃で、日本はまだ国力が充分とは言えなかった。
しかし、官民挙げての協力で日露戦争にも勝利。
これは外交的な手腕によるところも極めて大きい。
アメリカ同様ロシアも強国大国でおよそ日本が敵う相手ではない。
それは日清戦争、日露戦争ともに、広大な相手国の国土で戦ったわけではない。
どちらの場合も戦闘行為は朝鮮半島で行われた。
場所が限定的だったこと、また期間が限定的だったこともあって日本は劇的な勝利を収めることができている。
特に日露戦争の場合、危機一髪で、もし戦争が長引けば日本が負けていた可能性の方がはるかに大きかった。
日本の外交力がピークだったのはこの辺で、アメリカのルーズベルト大統領を担ぎ出してロシアとの講話に持ち込んだようだ。
その時結んだ条約が有名なポーツマス条約。
渋沢栄一のポリシーとして戦争のために商業が利用されるのは本意ではなかっただろう。
彼は戦争ではなく平和な世の中でこそすべての人が幸せになれると信じて疑わなかった。
また、戦争はその1時だけは商業の発展に寄与することがあるかもしれないが、平和な時代には遠く及ばないのだと。
体力の限界
周りから請われるがままに全力で走り続ける栄一。
しかし、還暦を過ぎた体はそろそろ限界を迎えつつあった。
日露戦争のための講話をした後、その場に崩れ落ちるように。
このときの病気は重く、肺炎を併発していて、命も危ぶまれる状態。
物語の中でも父親の様子に狼狽える息子篤二が克明に描かれていた。
彼は、偉大な父親を持ったが故に常にプレッシャーの中で生きていたようだ。
青天を衝けでは、様々なエピソードが物語の中に組み込まれていて、この辺の場面にも徳川慶喜が絶妙なタイミングで登場している。
渋沢栄一の自宅にも徳川慶喜が時々来ていたことがうかがえるような。
渋沢栄一の執念は体がボロボロになっても、まだ仕事への情熱を失わなかった。
医者に止められてもなお、仕事に立ち向かおうとする。
さすがにそんな姿を見せつけられる息子篤二はますますプレッシャーを感じただろうに。
徳川慶喜公
徳川慶喜の自伝を作ることについて渋沢栄一は熱心に依頼していたようだ。
彼の業績を心から評価し尊敬していた渋沢栄一やかつての幕臣たち。
徳川慶喜には彼にしか分かり得ない苦悩があった事は間違いない。
自分の果たすべき責任や、どう振る舞わなければならないのかをよく理解した上で様々な行動をとっていたようだ。
渋沢喜助や尾高惇忠など、皆 徳川慶喜の知るところ。
彼らの業績を高く評価していたようだ。
そうした上で慶喜本人が果たすべき役割は、自分が戦の種になることだけは絶対に避けようと。
幕末から明治維新にかけて、幕府内では打倒薩摩の機運がコントロール不可能なくらい盛り上がっていた。
その結果起こった鳥羽伏見の戦いは自ら失敗だったと述懐。
歴史的な考察を見れば、それはどうしようもない結果生まれた判断だとわかるが、大勢の部下たちを死なせてしまった後悔は生涯拭い去ることのできない痛でに。
実はこうしたことがもとで、徳川慶喜はあえて一切の批判に反論することなく、だんまりを決めこんだ。
それは駿府に引きこもってからおよそ30年間続いた。
先に述べたように自分が戦の種になってはならない。
不用意な発言をすれば、必ず誰かがそれに呼応して別な誰かを不幸にする。
誰に何を聞かれても決して答えてはいけないと自分に言い聞かせていたようだ。
しかし、そうしたことこそが日本の発展のために偉大な貢献を成したと渋沢は言い張る。
その結果自伝の編纂が可能に。
渋沢栄一が果たすべき役割
渋沢栄一は、自分自身が全力で走ってきた結果、民衆と指導する側とに決定的な溝が生まれていることを痛感。
彼は数え年70歳の古希を境におもだった活動を引退。
後進に道を譲ることになるのだ。
慈善事業と、教育関係の啓蒙運動には生涯かけて尽力したと言われる。
晩年は2度ほどノーベル平和賞にノミネートされるが受賞には至らなかった。
なんといっても外交手腕を遺憾なく発揮してアメリカと懇意な間柄を築きあげたのは渋沢栄一の業績と言える。
しかし、彼以降アメリカとの関係は悪化をたどることになって、およそ20年後には日米開戦に導かれてしまう。
渋沢栄一が生きていれば、おそらく戦争になる事態は避けられたような気がしないでもない。
さて、近代日本史のエピソードはあと2回で終了する。