物語の設定は昭和26年11月
戦後は多少時間が経って、世の中はそれなりに落ち着きを取り戻し発展するような様子。
物語の主要な登場人物作曲家「羽鳥善一」は2000曲作曲を祝う会が催されることに。
善一らしい不思議なこだわりで物語はユーモアたっぷりに描かれる。
善一に呼ばれたスズ子と茨田りつ子は2000曲作曲記念のパーティーで特別な催し物をすることを依頼された。
今更確認する必要もないが、羽鳥善一のモデルは服部良一。
スズ子は笠置シズ子。
茨田りつ子は淡谷のり子。
3人にまつわるエピソードがそのまま物語に踏襲されているような。
ブギウギでは善一の作曲数が2000曲を超えたことが紹介されていた。
生涯で服部良一は3000曲以上を作曲したとされる
そうなると、この当時の他の作曲家たちがどうなのかも調べてみたところ。
古賀政男は4000曲以上
古関裕而は5000曲以上 作曲
もちろん芸術家と呼ばれる人たちの業績は数字では評価できないと思うが、この時代日本の歌謡界は今とは比較にならないほど賑やかだったのかもしれない。
今日のエピソードの見所は茨田りつ子がスズ子に説得されてラインダンスを踊るところ。
淡谷のり子同様りつ子はブルースの女王として動きの激しいパフォーマンスは全くの未経験。
説得されたとは言え、まさかラインダンスを踊らされるとはね。
物語は心の中に少しばかりのゆとりを持ち始めた芸術家たちのそれぞれが描かれることになった。
目次
羽鳥善一2000曲作曲記念コンサート
物語の流れから見てそろそろ世の中は戦後の復興が加速度を増した感じ。
エンターテイメントの言葉が出てくるあたり、世の中は少しずつ娯楽にも目を向けるような時代に。
昭和26年は私が生まれる2年前に相当する。
考えてみれば、テレビ放送の始まる1年前。
羽鳥善一は、この頃2000曲を超える作曲数を誇った。
もちろん有名な曲もそうでない曲もあっただろう。
歴史に残るほどの作曲家なので、大抵の曲は知っているものと思われる。
特にジャズテイストの曲に関しては、彼の独壇場だったかもしれぬ。
ドラマ制作のこだわりとして、スズ子の衣装はこの物語が始まったときのステージ衣装をそのまま使用。
およそ半年前のことになるが、当時は気にも留めていなかった細かい味付けなど今更のように思い出すことになる。
スズ子とりつ子
2人のモデルとなった淡谷のり子と笠置シズ子は生涯通して交流が続いていた。
2人とも歌っている曲のジャンルは、まるで違うが、歌手活動へのポリシーはお互い共通するものがあったと思われる。
特に戦前から戦中にかけての歌手活動は困難を極めた。
それでも2人ともプロとして1歩も引き下がることなく自分のポリシーを貫いた点で考えれば、ある意味戦友のようなもの。
それぞれ嫌味を言ったところで、相手のことを認めるまたはリスペクトする心にはいささかの陰りにもない。
スズ子がジャズ風のアレンジで楽しく歌うことを得意としたことに対して、りつ子はブルースの女王として心の奥の葛藤などを描くことに長けていた。
2人に共通するのが羽鳥善一のお気に入りのアーティストなこと。
全くジャンルの違う2人の歌手は、同じ作曲家の下で活動する不思議な関係でもあった。
ラインダンスのヒントは愛子のお遊戯会
善一のパーティーでりつ子とスズ子に余興のオファーがやってきた。
これは2人に直接ではなく、スズ子のマネージャータケシに依頼された。
りつ子の発案で善一がびっくりするような出し物をと提案される。
スズ子が思いついたのは、ラインダンス。
スズ子にとってはお得意。
梅丸歌劇団の時に散々やっていた出し物なのでお手のもの
物語では、善一の意表を突いた形で演じられることに。
それにしても、出し物のヒントが愛子の幼稚園のお遊戯会のものを思いつくとはね。
パーティーの楽しそうな様子ももちろん伝わってくるが、当時日本の歌謡界がここまで華やかだったことが戦争を乗り越えた日本の人たちのたくましさが感じられてほほえましく見ていられる。
1951年11月から
1951年と言えば、NHK紅白歌合戦の第一回が開催された年である。
もちろんテレビ放送は無い。
に開催されるのは12月31日と今と変わらないが、時間が夜8時から9時までの1時間だったようだ。
そして歌合戦ではなく、歌試合と命名されていたようだ。
そして男女ともに数名の歌手が男性チーム女性チームに分かれて歌を披露する。
第1回の時は男性チームが勝利したようだ。
した歌手たちのギャラは一律3000円とあった。
この出演料は、今の貨幣価値に換算すると、およそ90,000円程度とされる。
笠置シズ子や淡谷のり子が普段どの程度の出演料でステージに立っていたかおおむね想像できる。
少しずつ世の中が平和を取り戻しつつあった頃と思われた。