らんまんは今日のエピソードを描き切ったことで、この物語の家族への想い入れを余すことなく表現できた。
わずか15分の物語ながら、観ているものが息を呑むようなストーリー展開。
ネタバレ情報で園子が亡くなる事は知っていた。
しかしまさか始まったそうそう 冒頭の1分間で告げられる事実してはあまりにも重い。
久しぶりになるが寿恵子の母まつも急遽訪ねてきた。
園子が死んでしまった事実は変えようがない。
さらには土佐の峰屋。
腐造を出した酒蔵が生き残る道はなかった。
なんといっても売り物になる酒が全くない状態で、しかもしっかり課税される。
確かにこの時代の酒蔵では腐造は稀に起こることとされながらも、一度起こってしまえば全てが失われてしまう。
老舗の酒蔵峰屋の最後の蔵元となっていた綾。
今、時代の流れに押しつぶされるかのように沈んでいく。
らんまんが波瀾万丈の物語になる事はうすうすわかっていたが、ここまで厳しい現実がそのまま描かれることになろうとは。
物語の中で、1つ希望が感じられるとすれば十徳長屋でのエピソードだろう。
長屋の人たちの気配りや、まつさんの配慮。
そして、失ってしまった娘にたむける万太郎と寿恵子の真心。
寿恵子はもうじき2番目の子供が生まれる。
目次
園子の死
強烈なインパクトで園子の死は物語の冒頭で告げられた。
わずか2歳。
それが園子の一生と言うことに。
調べてみると、麻疹の死亡率は10%程度ながら かかれば助からない可能性も多かったのだ。
コレラが流行った時も、別名コロリと行って恐れられたが、麻疹は別名三日コロリと呼ばれた。
つまり、発症してから3日ほどでなくなる場合が多かったようだ。
それにしても、思わず息を呑むような展開で衝撃を感じた。
峰屋の終焉
峰屋は腐造を出したことで事業が全く成り立たなくなっていた。
腐った酒は全て廃棄するしかない。
さらにこれも調べてわかったことだが、当時の酒蔵は木桶を使っていたので、除菌、その他が完全に行われなければ、数年間酒蔵として機能しなかったらしい。
つまり、一度でもこんな事態に陥ってしまえば、もうそこはやっていけないってことになるよね。
事実、お殿様の酒蔵としての峰屋はかつて栄華を誇ったが、明治のご時世では残念ながら役にはたたなかったようだ。
そして、この時代の大きな特徴として造石税があるだろう。
税収に悩んでいた明治政府は、どうしても税金を確保したいがため酒蔵に課す税金を造石税に改めた。
つまり、普通は売れた金額に応じた課税がどんな商売でも適用されるが、酒蔵に関してだけ酒を仕込んだ段階で課税する。
つまり、税金の先取りみたいなもの。
そして作った酒が売れ残ったとしても、それは感知しない。
作ったんだから、払えと言う暴力的な取り立て。
この制度でやっていけなくなった酒蔵も多いと聞く。
参考までに、今現在の酒蔵は酒を仕込む入れ物その他全て木桶以外のものを使うのと、温度等の管理を厳格に行われるので腐造が発生する確率は、驚くほど低いか皆無に近い。
ドラマに登場する峰屋の関係者が語っていたが、酒蔵をやれば、誰が管理しようが腐造は避けて通れないらしい。
それもまた、当時のご時世ながら残酷な話だと思う。
綾と竹雄
綾と竹雄のもとを訪ねてきたのは親戚。
以前もドラマに登場していたので、キャラクターもよくわかる。
本家の峰屋を必ずしも快く思っていなかったのは事実。
しかし、今回描かれた彼らのキャラクターは違っていた。
綾と竹雄を励ます側になっていたね。
峰屋にまだタキさんが存命だった頃、この親戚たちがずいぶんといじめられていたエピソードを思い出してしまう。
しかし、明治のご時世になって、彼らもまた生き残りを模索しながらここまでやってきたものと思う。
竹雄が助けてほしいとの問いかけにも、分家の規模では到底無理だと納得させられてしまった。
峰屋はそれだけ大きな存在だってことが今更のように思い知らされる。
そして竹雄と綾に 若いんだからこれからいくらでもやり直しは効くと励ましていた。
伸次とのエピソードも感動的に描かれていたと思う。
彼は、本来なら綾と結婚する話も出ていたはず。
今回の峰屋騒動は明らかに時代の移り変わりを強烈に印象づけた。
追悼 園子
わずか2歳で世を去った園子にたむける万太郎と寿恵子の祈り。
万太郎は自ら描いたヒメスミレの絵を炎の中にくべて園子の菩提を弔った。
十徳長屋でのいろんな人たちの会話の中で、
子供は7歳までは神のうちとあった。
確かに、ずいぶん昔に聞いたことがある言葉。
この時代、子供の死亡率ももちろんだが、女性の死亡率も驚くほど高かったと伝わる。
特に思いがけないことだが、20代前半でなくなる女性がかなり多かったのだ。
調べてみると、理由はお産によるものらしい。
やはり、命がけだったことが思い知らされる。
数字を上げても仕方がないと思いつつ、人の生き死にがこんなにも身近に感じられるのは、日本の歴史では当たり前だったのかもしれない。